ふろウラ Flowllah

Just another WordPress.com site

Archive for the ‘外から見た日本’ Category

世界のナカタ

leave a comment »

お金を引き出しに行ったハルゲイサの銀行は、その日が祝日だったこともあり、客足はまばら。 窓口のお兄さんもたいそう暇そうで、初対面の私に親しげに話しかけてくる。

「中国人?日本人?  あ、日本人か。サッカーのナカタ、知ってる?」

今でも「有名な日本人サッカー選手」といえばナカタなのだろうか。ホンダではないのか?果たしてこのお兄さんはあまりサッカーのことを知らないのかな、と思いつつ「ナカタは数年前に引退したよ」と教えてあげたところ「なんだって?暗殺か?それとも交通事故?」と驚いていた。驚いたのはこっちのほうなのだが「いや、引退したんだ。プロとして競技することを止めたということだよ」と追加説明して、ようやく分かってもらえた(ようだった)。

誰かが(それまでいた場所から)いなくなることが、すぐに暗殺とか事故を連想させるところに、この国の事情を垣間見るようである。

Written by Flowllah

May 3, 2014 at 07:33

「侍」

leave a comment »

「侍」遠藤周作 (新潮社, 1980)

こんどの休暇でインドのゴアへ行こうと思っていて(雨季だけど)、その準備のためにイエズス会について調べている過程でこの本の存在を知った。発表当時は話題作だったらしく、野間文芸賞も受賞しているらしい。真面目な小説を書くときの遠藤周作らしさが遺憾なく発揮されている、史実を丁寧に取材した上で書かれた重厚かつ救いのない話。結論から言うと、これは傑作。遠藤周作の小説のなかでもとりわけお薦め。

様々な問題提起が幾重にも織り込まれているので、この小説をどう読むかは人によって大きく違ってくるのだろう。私はヨーロッパと日本の本質的な違い、および「日本人とはなにか」を問うている部分にこの小説の魅力があると思う。それが顕著に現れるのが、マドリッドでの司教会議での応酬だ。長くなるがヴァレンテ神父の言葉を引用すると:

「日本人は決して一人では生きていません (…) ここに一人の日本人がいます。私たちは彼を改宗させようとします。しかし「彼」という一人の人間は日本にはいなかったのです。その背後には村があります。家があります。いや、それだけではない。さらに彼の死んだ父母や祖先がいます。その村、家、父母、祖先はまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのです。だから彼とは一人の人間ではありません。村や家や父母や祖先のすべてを背負った総体なのです。元に戻ったとは(注:棄教したこと)、彼がその強く結びついた世界に戻ったことです

日本人は本質的に、人間を超えた絶対的なもの、自然を超えた存在、我々が超自然と呼んでいるものに対する感覚がないからです。この世のはかなさを彼らに教えることは容易かった。もともと彼らにはその感覚があったからです。だが、恐ろしいことに日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享受する能力もあわせ持っているのです。その能力があまりに深いゆえに彼らはそこに留まることのほうを楽しみ、その感情から多くの詩を作っております。だが日本人はそこから決して飛躍しようとはしない。飛躍してさらに絶対的なものを求めようとも思わない。彼らは人間と神とを区分けする明確な境界が嫌いなのです。彼らにとって、もし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかはなれるようなものです。例えば彼らの仏とは人間が迷いを捨てた時になれる存在です。我々にとって人間とはまったく別のあの自然さえも、人間を包み込む全体なのです。私たちは彼らのそのような感覚を治すことに失敗したのです」

「個人というものが日本には存在しなかった」というのは、夏目漱石や金子光晴、阿部謹也の著作によく出てくる問題意識なのだけれども、遠藤周作も同じような問題意識を持っていたことをこの小説を読んで初めて知った。ただし阿部謹也によれば、ヨーロッパにおける「個人」の出現はラテラノ公会議(1215年)以降ということなので、キリスト教の普及に「個人」の存在が不可欠だったということにはならない。実際、当時の長崎におけるキリスト教の浸透を考えると、豊臣秀吉と徳川家康による伴天連追放および迫害がなければ日本にもキリスト教が相当程度普及していたかもしれないのだ(ところで、なぜイスラム教が日本に入って来なかったのか不思議。イスラム教はフィリピンまで来ており、マニラやルソンから琉球・薩摩までは海流に乗ってすぐの距離だったというのに)。

ちょっと脱線したので話をもとに戻すと、「日本には「個人」が存在しない」という問題意識は、欧州経験を持つ昔の日本の知識人が必ず感じたものなのかもしれない。では現在の日本ではどうなのかというと、夏目漱石がロンドンに、遠藤周作がパリに留学していた頃に比べれば、現在の日本人はしがらみから自由に発言したり行動できるようになっているのだろう。万事につけ適当な私は「別に「個人」が存在していなくても(楽しく暮らせるなら)いいじゃん」とも思う。

Written by Flowllah

July 8, 2013 at 19:09