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Archive for the ‘日常の雑感’ Category

地図が読めない女

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きのう同じ部署で働くソマリ女性から「わたし、地図が理解できないんです」と言われて驚いた。 来週に予定されている催事の打ち合わせ中、会場近辺の地図をモニターに出力した時に彼女が発した言葉だった。 その場での彼女や同僚たちの態度から察するに、地図が読めないことは(少なくとも私の現在の勤務先においては)珍しいことではない様子。むしろ、彼女は地図が理解できないことを堂々と宣言していたように思う。

「地図が理解できない」ということはどういうことか。「地図が読めない」という状況が私には理解できない。 地図は視覚情報だから「見れば分かる」はずではないのか。案の定、地図を拡大して(google map だったので)彼女がよく知っている周辺を表示させてみた途端「ああ、ここが首相府でここが病院」と、地図を即座に理解していた。

地図をシンプルに説明するならば「対象物を上空から眺めるかのように配置して、それぞれの位置関係を視覚的に表示したもの。多くの場合、地図の上が北となっている」であり、ほとんど直感的に理解できるものだと思う。 彼女も地図を拡大した途端、その情報を即座に理解していたので、地図はやはり「見れば分かる」便利なものなのだ。 にも関わらず「自分は地図が理解できない」という彼女の思い込みはどこから来るのだろうか。

この国に暮らす多くの人は、日常生活に必要な場所の位置関係はすでに頭のなかに入っているから、地図を見る必要(機会)がほとんどない。学校で地図の読み方を教わることもない。実際、この国で普通の生活をしている限り地図への需要は少ないはずなので、供給もまた増えないのだろう。赴任したとき、部署の同僚が一人として業務に関する詳細な地図を持っていなかったのも、そうした地図への依存度の低さ、需要の低さが背景にあるように思える。

彼女にとって地図は「使う機会の少ない、あまりよく知らないもの」だったのだが、それが彼女のなかで「知らないもの=理解できないもの」という勝手な思い込みに繋がっていたのではないだろうか。実際には、即座に理解できるだけの力を彼女は持っていたのにも関わらず。

自分自身の思い込みにより、自分の能力を無意識のうちに削いでしまっている事が自分にもあるのではないか、と考えさせられる一幕だった。

Written by Flowllah

May 30, 2014 at 08:27

世界のナカタ

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お金を引き出しに行ったハルゲイサの銀行は、その日が祝日だったこともあり、客足はまばら。 窓口のお兄さんもたいそう暇そうで、初対面の私に親しげに話しかけてくる。

「中国人?日本人?  あ、日本人か。サッカーのナカタ、知ってる?」

今でも「有名な日本人サッカー選手」といえばナカタなのだろうか。ホンダではないのか?果たしてこのお兄さんはあまりサッカーのことを知らないのかな、と思いつつ「ナカタは数年前に引退したよ」と教えてあげたところ「なんだって?暗殺か?それとも交通事故?」と驚いていた。驚いたのはこっちのほうなのだが「いや、引退したんだ。プロとして競技することを止めたということだよ」と追加説明して、ようやく分かってもらえた(ようだった)。

誰かが(それまでいた場所から)いなくなることが、すぐに暗殺とか事故を連想させるところに、この国の事情を垣間見るようである。

Written by Flowllah

May 3, 2014 at 07:33

沈黙の夕食会

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今週はイスラムのお祭り Eid  al Adha(犠牲祭)で月曜日から木曜日まで休み。金曜・土曜の週末と合わせて「大型連休」になるため、アフガニスタン人の同僚たちは故郷へ戻って家族団欒を楽しんでいる様子。異教徒の外国人スタッフのなかではドバイへ遊びに行く人も少なくないが、私は地方出張のためアフガニスタンに留まった。

その地方はトルクメニスタンとの国境にほど近い、北部では比較的大きな街。標高がカブールより 1,000m 低いにも関わらず 10月中旬とは思えないほどの寒さ(5c くらい)だったので、冬支度をサボった私は凍えたけれど、滞在した事務所兼宿泊所にはグルカのおじさんたち 8名 ほどが警備に当たってくれており、彼らの柔らかい物腰と表情に心温まる思いがしていた。グルカというと精悍で強面なイメージをお持ちになるかもしれないが、私が知っているグルカのひとたちはみな朴訥ではにかみ屋である。

偶然にも出張最後の晩(10月13日)がヒンドゥ教のお祭り Dusshera(ダシェラ)だったので、グルカのおじさんたちが夕食に招待してくれた。私はグルカはみんな仏教徒だと思っていたが、ヒンドゥ教徒も少なくないらしい。意外である。

食卓に並べられたごちそうは、たぶんネパール料理(私はインド料理とネパール料理を区別することができないのだが、北部インド料理をちょっと田舎風にするとネパール料理になる、という理解でよいかと思う)。アフガニスタンの田舎では到底手に入らない食材やスパイスをふんだんに使っていたので、おそらくネパールから持ってきた虎の子の食材を惜しげもなく放出したことが窺える。

みんなお腹がすいていたのか、食べ始めたあとはお喋りは一切なく、ただ黙々と食べ続けた。15分くらいで満腹になると、また沈黙。そのまま30分ほど沈黙が続いた後、夕食会は静かにお開きとなったのだった。騒がしい会が苦手な私はこの沈黙に内心安堵していたのだが、これを機にますますグルカの人たちのことを好ましく思えるようになった。ありがとう。

Written by Flowllah

October 15, 2013 at 16:21

ざくろの季節になりました

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仕事を終えて家に戻ると、食卓の上にざくろがあった。「もうそんな季節か」と感慨深いが、ざくろの横にメロンも置いてあって(しかもこれが甘くておいしい)、夏なのか秋なのかよくわからない気分にさせられる。夏と秋のちょうど境目ということなのだ。カブールは秋が短いので、秋の到来はほどなく冬がやってくることを知らせている。

ざくろについて書いた有名なペルシャの詩があったと思うんだけど、見つからない。その代わり、万楚という唐代の詩人が詠んだ「五日観妓」という詩を見つけた。でもよく読むと、この詩は五月の新緑のころ、紅い花を咲かせているざくろに着想を得て詠まれた詩なので、いま鑑賞するには季節はずれ。

さらに台湾に「柘榴」という名前の鉄道駅があることを知る。2012年に建てなおされたという駅舎が、台湾なんだけど日本の田舎を思い出させるような雰囲気。駅ができたのは1905年ということなので、これは(日本統治時代の)最初の駅舎を復元したものかも知れない。

また台湾へ行きたくなってきた。いますぐ行きたい。

Written by Flowllah

September 15, 2013 at 15:31

いつもとは少し違う戦争の頃の話

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世界でも有数の経済成長率を誇るアフガニスタン(2012年は前年比 10% のGDP成長)の首都カブールはすごい勢いで車が増えている一方で、都市計画や道路整備が追いついておらず日中の渋滞は悩みのタネ。きょうもそんな渋滞に巻き込まれていたところ「昔おれが戦車を運転してた頃は」と、運転手がぼやき始めた。「行く手を遮る車両はすべて体当りして道端にどかしていた、わはは」などと物騒なことを言う。でも楽しそうだ。さぞ爽快だったことだろう。「え?戦車を運転してたの?いつ?どこで?」と聞くと「20年くらいまえ。北で」という返事。「たくさん殺したよ」。

まー、あれですよね。アフガニスタン人の同僚と話をしていて、戦争の頃の話になるのはよくあることだ。これまでもごく普通の日常会話のなかで「ソ連兵に父親と兄を殺されたあと、幼かった俺は母と姉に連れられて徒歩でパキスタンまで逃げた。パキスタンでいまの女房を見つけたんだよ!ガハハ!」とか「自宅を女の子のための学校にしていた。タリバンに見つかると殺されるから、教科書とかはぜんぶ庭に埋めたよ。私も長いヒゲを生やしてターバン巻いていた。そんな私の格好、想像できますか?」とか、「ある朝早く、とつぜん父親に「いまから空港へいく。すぐ支度しなさい」といわれて、とりあえずリュックサックに入るだけ詰め込んで、飛行機に乗ったらそれっきり25年間の海外生活だぜ」とか、そういう話になったことはあったけど、「たくさん殺したよ」というセリフは初めて聞いたのでちょっと驚いた。(自分が知っている)誰かが殺されたという話にくらべて、(自分が知らない)誰かを殺した、という話はしづらいだろうから、後者の視点からの話を聞く機会が少ないのは自然なことだ。ただ「殺した側と殺された側が、そうとは知らずひょっとすると机をならべて仕事をしているかも知れない」と考えると、自国民同士が殺しあう凄惨な内戦の総括をしないまま、なし崩し的にこれまでやってきたこの国の危うさを感じずにはいられない。この国の内戦の指導者たちを「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁く日がいつかくるのだろうか。

あんまり来なさそうだよねえ。

Written by Flowllah

July 27, 2013 at 05:47

ラマダン3日目。あちらの地方は白夜です。

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きょうはラマダン 3 日目。私が最初にラマダンを経験したのは太陽暦の10月頃だったが、近年のラマダンは太陽暦の(北半球の)真夏にぶち当たっている。これはイスラム暦が太陽暦より短いので、ふたつの暦が毎年10日づつずれるからだ(イスラム暦が前にずれる)。

さて、北半球の夏は緯度が高くなればなるほど日が長くなる。スウェーデンなど北極に近い地域は真夜中になっても日が沈まない「白夜」の季節だ。その一方、ラマダンの断食は日出から日没までとなっている。そこで「日が沈まない地域に暮らすムスリムは 24 時間ずっと食事もできず水も飲めないまま、程なくしてみんな死んじゃうのではないか?」という疑問が生じる。北欧諸国にはイスラム圏からの移民が多いので、これは切実な問題であるはずだ。

ということで調べてみました。結論からいうと、そういう地域では地元のイスラム協会みたいな団体が「日は沈まないけど、断食は何時まででよい」という通達を出しているとのこと。そりゃそうだ。じゃないとみんな死んじゃうもんね。ちなみに東京とほぼ同じ緯度にあるカブールでは、今年の断食は朝 3 時半から夜の 7 時過ぎまでだそうで、これも相当つらいはず。まだ 3 日目だからみんな穏やかだけど、ラマダンも中盤にさしかかる頃から、日中とても眠そうにしてたり、やたらピリピリしている人が激増するので要注意。事故も増える。

会社の勤務時間もラマダン時短となって、仕事がぜんぜん進まなくなるのだけれど、これはもう仕方がない。普段は騒々しいカブールの街も、ラマダンが始まってからは昼間はとても静かだ。その分、飲食ができる夜はとても賑やか。毎年恒例のラマダン特需。地元のテレビも特番とか人気ドラマの一挙放映をするらしいので、日本の年末みたいなノリなのだろう。いまこのブログを書いている今も、近所のモスクで行われている説教が拡声器を通じて盛大に聞こえてくる。一晩じゅう続きそうな勢いだ。こういうお祭り騒ぎ的な楽しい側面がないと、断食なんてとてもじゃないが続かないのだろう。

ムスリムの皆さん、がんばってください。

Written by Flowllah

July 11, 2013 at 17:26

10 – 4

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きょう米国人の同僚からのメールに 「10-4 !」とだけ書いてあって、何のことだか分からなかったから調べてみると「了解です」という意味らしいことが判明した。米国で使われている俗語だというから「了解っス!」くらいの雰囲気なのかも知れない。「テン・フォー」と読むとのこと。初めてお目にかかりました。

俗語とか、一部のグループだけで使われている言葉は、その言語を外国語として使用している者にはとても難しい。その言葉を使うことができる状況(いつ、どのように、誰に対して使うか)を把握していないまま覚えたての言葉を使うと、場合によってはとんでもなく失礼なことになってしまうからだ。逆に、これ以上はないというくらいドンピシャな使い方をすると「おお!」と感心されたりする場合もあるのだけれど、リスクを考えると「その言葉の使い方に自信がないときは、使わないほうが無難」という判断に至る。流行語とか俗語を使って感心されるより、折り目正しく誰にでも分かりやすい言葉遣いを続けたほうが「減点のリスクが少ない」のだ。

でも俗語を使って「感心される」というのは、つまり、その言葉を母語として使用している人たちから「あいつは外国人だ」と(無意識的にでも)思われているということでもある。大学の頃、同級生にオーストリア(オーストラリアではありません)からの留学生がいて、その時点で日本滞在が三年程度だった割には日本生まれの日本人と同じくらいに流暢な日本語を使う人だったんだけど、彼はまわりの日本人から「日本語がお上手ですね」と言われるたびに腹を立てていた。「上手だって言われるってことは、つまり、自分はまだ外国人扱いされているってことでしょ?」というのが彼が怒っている理由だったんだけど、そこがニューヨークならいざ知らず、どれだけ日本語が達者でも東京にいる金髪碧眼のオーストリア人が日本人と間違われるようになるまでは、少なくともあと20年は必要なんじゃなかろうか。

これは日本語と英語の大きな違いを示唆していると思う。日本で使われている日本語はそのほとんどが日本人が母語として使っている日本語なので、こなれた日本語が当たり前のように流通している。その結果、少しでもヘタな日本語を使うとすぐに「この人は外国人」と思われてしまい、それからはずっと「外国人」として扱われてしまう(日本人でも敬語の使い方がちょっとアレだとか、そういう問題はありますが)。一方で、英語では様々な習熟度が混在しながら意思疎通が行われるので、相手の英語の習熟度に対する期待値がそれほど高くない。というか「ヘタな英語がデフォルト」とか「英語を母語とする人は一人もいないけど職場の言語は英語」という職場もかなりの数で存在していて、そしてその数は増えている。これは今後の世界における英語の流通をさらに加速させ、英語の地位を一層押し上げるだろう。多くの日本の職場では外国人も上手な日本語を喋ることが言外に期待されているので、日本語がヘタな人にとって大きな障壁となっている。こうして、これからも日本は日本人ばかりの日本になってしまうのだ。

日本語がいささか怪しくてもきちんと仕事ができる人ならどんどん職員として採用する、そんな会社や役所が増えれば市中に流通する日本語のレベルも下がるので、海外から日本に来る人も仕事が見つけやすくなるだろう。楽天のように会社での使用言語を(ヘタな)英語にするというのも一案だが、会社での使用言語を「ヘタな日本語にする」という選択肢も十分ありうる。そしてそれは「開かれたニッポン」への一つの方策だと思う。

Written by Flowllah

July 10, 2013 at 17:18