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Archive for the ‘本・書評’ Category

「海にはワニがいる」

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「海にはワニがいる」ファビオ・ジェーダ (早川書房,2011)

十歳のハザラ人の少年が、タリバン政権時代のアフガニスタンを逃れてパキスタン、イランなどを経てイタリアに辿り着き、トリノに安住の地を見つけるまでの八年間のお話。とても読みやすく、また惹きつける内容なのですぐに読み終わってしまう。いい本です。おすすめ。

ところどころに挿入される少年とイタリア人作家(著者)の会話が、少年の内面をあぶり出す役目を果たしていて面白い。たとえば:

「ほら、まただ」

「またって?」

「君はそうやって、すぐに話題を変えてしまう癖があるんだ。もう少し、そのおばあさんのことを話してくれよ。家がどんなふうだったとか」

「どうして?」

「興味があるからだよ。みんなだって知りたいと思うな」

「それは分かるけど、前にも説明したとおり、僕は出来事そのものにしか興味がないんだ。あのおばあさんが僕の物語の中で重要なのは、その行為のゆえのことであって、名前とか、家がどんなふうだったとかはどうでもいいことなんだ。言ってみれば、彼女自体は誰でもいいんだ

「え?」

「同じ行動をとる人なら誰でもいいってことさ」

この「同じ行動をとる人なら誰でもよかった」という言葉が、各地を放浪する少年にとっては一時的な人間関係だけが重要だった、極言すれば「行為が重要であり、人間関係は必要ない生活だった」ということを思わせる。ある場所に定住して、それなりの長期間にわたって人間関係が続くことが前提の生活を送っている者にとっては、行為も重要だが「その行為の主体者が誰であったか」もまた重要だからだ。この言葉から、この少年が続けてきた旅の孤独さが偲ばれる。少年は、その旅が孤独だったとか、過酷だったとかは一言も口にしていない(少なくとも本の中では)けれど、それはおそらく十歳のころからひとりぼっちで生きていかなければならなくなった彼にとって、孤独であることが当たり前すぎたからだとも解釈できる。そして数々の幸運に恵まれて、少年はイタリアに到着する。政治難民申請が受理されて、少年は滞在許可を取得する。

「安住の地ってどうすれば見つかるものなんだろう?ほかの場所と見分けがつくものかい?」

「ここを出てどこかに行きたい、と思わない場所がそうさ。そこが完璧だから、というわけじゃない。完璧な場所なんてどこにもないんだ。でも、誰かにそれほど邪魔扱いされずにすむ土地があるならね」

また、共同生活施設に行くことになった少年(当時高校生くらい)に「一緒に暮らそう」と提案したイタリア人家庭の存在が印象深い。キリスト教が背景にあるのかもしれないし、難民を受け入れている国ではいろんな制度が整備されているはずなので珍しいことではないのかもしれないが、いまの日本ではなかなか考えにくい展開だと思う。そして、そのイタリア人家庭での暮らしのなかで少年はもう「同じ行動を取る人なら誰でもいい」とは言っていないのではないだろうか。そしてそれは、彼にとって「安住の地 」を見つけたということなのだろう。

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Written by Flowllah

June 20, 2014 at 08:39

「侍」

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「侍」遠藤周作 (新潮社, 1980)

こんどの休暇でインドのゴアへ行こうと思っていて(雨季だけど)、その準備のためにイエズス会について調べている過程でこの本の存在を知った。発表当時は話題作だったらしく、野間文芸賞も受賞しているらしい。真面目な小説を書くときの遠藤周作らしさが遺憾なく発揮されている、史実を丁寧に取材した上で書かれた重厚かつ救いのない話。結論から言うと、これは傑作。遠藤周作の小説のなかでもとりわけお薦め。

様々な問題提起が幾重にも織り込まれているので、この小説をどう読むかは人によって大きく違ってくるのだろう。私はヨーロッパと日本の本質的な違い、および「日本人とはなにか」を問うている部分にこの小説の魅力があると思う。それが顕著に現れるのが、マドリッドでの司教会議での応酬だ。長くなるがヴァレンテ神父の言葉を引用すると:

「日本人は決して一人では生きていません (…) ここに一人の日本人がいます。私たちは彼を改宗させようとします。しかし「彼」という一人の人間は日本にはいなかったのです。その背後には村があります。家があります。いや、それだけではない。さらに彼の死んだ父母や祖先がいます。その村、家、父母、祖先はまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのです。だから彼とは一人の人間ではありません。村や家や父母や祖先のすべてを背負った総体なのです。元に戻ったとは(注:棄教したこと)、彼がその強く結びついた世界に戻ったことです

日本人は本質的に、人間を超えた絶対的なもの、自然を超えた存在、我々が超自然と呼んでいるものに対する感覚がないからです。この世のはかなさを彼らに教えることは容易かった。もともと彼らにはその感覚があったからです。だが、恐ろしいことに日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享受する能力もあわせ持っているのです。その能力があまりに深いゆえに彼らはそこに留まることのほうを楽しみ、その感情から多くの詩を作っております。だが日本人はそこから決して飛躍しようとはしない。飛躍してさらに絶対的なものを求めようとも思わない。彼らは人間と神とを区分けする明確な境界が嫌いなのです。彼らにとって、もし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかはなれるようなものです。例えば彼らの仏とは人間が迷いを捨てた時になれる存在です。我々にとって人間とはまったく別のあの自然さえも、人間を包み込む全体なのです。私たちは彼らのそのような感覚を治すことに失敗したのです」

「個人というものが日本には存在しなかった」というのは、夏目漱石や金子光晴、阿部謹也の著作によく出てくる問題意識なのだけれども、遠藤周作も同じような問題意識を持っていたことをこの小説を読んで初めて知った。ただし阿部謹也によれば、ヨーロッパにおける「個人」の出現はラテラノ公会議(1215年)以降ということなので、キリスト教の普及に「個人」の存在が不可欠だったということにはならない。実際、当時の長崎におけるキリスト教の浸透を考えると、豊臣秀吉と徳川家康による伴天連追放および迫害がなければ日本にもキリスト教が相当程度普及していたかもしれないのだ(ところで、なぜイスラム教が日本に入って来なかったのか不思議。イスラム教はフィリピンまで来ており、マニラやルソンから琉球・薩摩までは海流に乗ってすぐの距離だったというのに)。

ちょっと脱線したので話をもとに戻すと、「日本には「個人」が存在しない」という問題意識は、欧州経験を持つ昔の日本の知識人が必ず感じたものなのかもしれない。では現在の日本ではどうなのかというと、夏目漱石がロンドンに、遠藤周作がパリに留学していた頃に比べれば、現在の日本人はしがらみから自由に発言したり行動できるようになっているのだろう。万事につけ適当な私は「別に「個人」が存在していなくても(楽しく暮らせるなら)いいじゃん」とも思う。

Written by Flowllah

July 8, 2013 at 19:09

「若手行政官への推薦図書」

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ちょっと前、若手公務員のために人事院が作成した推薦図書リストがネットで話題になっていた。大学教授や上級行政官25名からのお薦めをもとに作られた、哲学、歴史、経済、自然科学などの分野にまたがる立派なリストには73冊のタイトルが並ぶ。そこに並ぶ書名を見ているうちに、霞ヶ関に勤務する知人の顔が浮かんできた。かねてから彼に「読め、読め」と言われていた本がたくさんリスト入りしていたからだ。夏に彼と話す機会があったので、リストの話を持ち出すと、やはり彼もリスト作成に関わっていた。

「最初は推薦者ごとに書名が並んでいて誰がどの本を推薦したのか分かるようになっていたけれど、物言いがついて、推薦者と書名をばらばらにすることになった」とのこと。どういうプロセスで推薦者が選ばれたのかという点も興味深いが(知人のツテ?)、どこからどんな物言いがついたのか、という点がさらに興味をそそる。

プラトン、ウェーバーから山本周五郎や梅田望夫まで、リストに並ぶ著作者は硬軟自由自在。推薦者たちの興味の裾野の広さが伺える。サミュエル・ウルマンとかサン・テグジュペリがリスト入りしているところなどは、推薦者のロマンチストかつ若々しく可愛らしい一面が見えて微笑ましい。瑞々しいなぁ。やはり、推薦者ごとに書籍名が分かるようになっていたら「えっ!あの人がこの本なの?」という意外な発見があって面白かったはず。残念。

おそらく、そこらへんの照れ、または「あの人の推薦書にくらべて、私の推薦書は(好きな言葉を入れてください)…」という心理が「物言い」の背景だったのではないか。さらに妄想を進めるなら、人事院は推薦者のそういった心情に「配慮して」推薦人と書籍リストを分離することにしたのではないかと思う。自己規制というやつですね。

さて、73冊の著者を出身地域別に分類すると:
*出身国を雑にカウント。たとえば「パレスチナ生まれだけど米国で活躍した」人は米国人として勘定してます。

アジア  48%
(日本 34、韓国 1)

欧州  29%
(英国 8, フランス 4, ドイツ 4, オランダ 1, スペイン 1, オーストリア 1, ギリシア 1, イタリア 1)

米州  23%
(米国 17)

ついでに男女比を見てみると:

男  99%:女  1%

年代別にも分けてみようと思ったけど面倒だからやめた(ざっと見たところでは19世紀以降の著作が9割を占めてる感じ?)。国別の数字は「どこを手本としてきたか」という19世紀以降の日本の路線を、図らずもそのまま反映しているようで面白い。中国やインドからは誰もいないのだった(私なら魯迅やネルーを推したい)。中国の公務員やインドの公務員を対象としたリストを作ったら、どんな本が入るのだろうか。男女比が 99 対 1 という点については、女性が教育に参加できるようになったのはここ100年くらいの話だから、女性が少ないのは仕方ないかもしれない。とは言え、それでも少なすぎるだろこれ。さらに唯一の女性が塩野七生、というところに推薦者たちの好みが見える(私なら神谷美恵子を推したい)。

というわけで、リストでちょっと遊んでみた。最後に、このリストの冒頭の文が、ひとつの日本語の文としては長すぎることを指摘しておきたいと思いますw。

「人事院は、新規採用者から課長補佐級までの若手職員を対象とし、これらの職員が、自ら判断できる精神的機軸を作り、思索力や論理的思考力を涵養するなど、行政官としての素養を高めるための一助となるよう、学識経験者及び幹部行政官経験者の方々に読むことを推奨する図書の御推薦を依頼し、「若手行政官への推薦図書」のリストを作成いたしました。」 ← なげーよ!

(追記)「日暮硯」(西尾・林)を読んでみたけど、言葉づかいが古すぎて理解不能。「笠谷注釈」にすれば良かったのね…。

Written by Flowllah

October 13, 2012 at 07:14

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「中国化する日本」

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「中国化する日本」與那覇潤 (文芸春秋, 2011)

著者の大学での講義ノートを書籍化したということで、学術研究の成果というまじめな内容の割りに平易でポップな文体となっており読みやすい一方、悪ノリとも取れるような部分もあって、潜在的ファンを減らしている(損している)かも知れない。

過去1,000年の日本の歴史を、グローバリゼーション(中国化)への動きとそれに対する反動(江戸時代化)の反復で説明しようとする視点は新鮮で面白い。

個人的にツボったのは「人権は封建遺制である」と述べている10章。ここで筆者は「なぜ中国には法の支配、基本的人権、議会制民主主義が欠如しているのか」という問いは正しい問いではなく、むしろ「なぜ遅れた野蛮な地域であるはずのヨーロッパ近代のほうに法の支配や基本的人権、議会制民主主義があるのか」を考える必要があると説いている。筆者によると「西洋型の近代社会を支えるインフラであり、また他の社会と比べてその最大の魅力となっている法の支配や基本的人権、議会制民主主義はもとはといえばどれも中世貴族の既得権益」なのだという。そして宋代以降の中国では特権貴族階級が絶滅したが故に、これらのシステムが発達しなかったのだと説明している。

この指摘は目からウロコだった。この説明については詳しく勉強してみたいが、人権を至上の価値として標榜する組織で働く東アジア出身者として、私もこの点(「人権」というコンセプトをめぐる欧州とそれ以外の大きな隔たり)について漠然とした疑問を持っていたので、この指摘は自分の考えを深めるきっかけになると思う。中国の指導部においてさえ Universal Valueの是非が云々されているけど、それらを人類にとって普遍的な価値として無批判的に受け入れるのではなく、その成立の歴史的背景をもっと深く洞察する姿勢と努力が一般の人々にも必要ではないかと思った。

いずれにせよ、刺激的な良書です。おすすめ。

最後に、どうでもいいことだけど、本書のなかで筆者は1931年から1945年までの日本の戦争を「あの戦争」とカギカッコつきで一貫して呼んでいる。なにか理由があるのだろうけど、本書にその説明はなかった。あと「 品格」とか「美しい国」といった、数年前に日本でもてはやされた言辞をとことん揶揄する姿勢には大きな共感を持った。がんばれー。

Written by Flowllah

January 8, 2012 at 18:37

Posted in 本・書評